フロイトと狼男(1)

https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/36898/1/BungakuKenkyukaKiyo2_56_Murai.pdf

フロイトと狼男(1)

村井翔

 彼が語った狼の夢にちなんで狼男( Wolfsmann)というニックネームで呼ばれることになるフロイトの患者、セルゲイ・パンケイエフ。この患者をめぐる症例研究論文は原光景( Urszene)、事後性(Nachtraglichkeit)といった精神分析の中核概念について初めて本格的な論考を展開したのみならず、ラカンにとっては重要な排除(Verwerfung)という語を最初に登場させたという点でもきわめて注目すべき、いわゆる五大症例中でも最後にして、かつ最重要の論文である。

また、狼男に対する分析治療自体が計5年にもわたったのみならず、その後もフロイトと患者は、お互いの死に至るまで切っても切れぬ、いわば腐れ縁で結ばれたような転移/逆転移の関係となってしまった。「フロイトの最も有名な症例」となった狼男はフロイトの死後さらに 40年、1979年まで生きたため、フロイト以後の詳しい予後とその治療歴、フロイトの治療失敗を事実上、暴露してしまうような狼男自身による回想記やインタヴュー、精神分析以外の立場からの精神医学的な診断などが豊富に揃っているほか、原光景と事後性をめぐっては物語論や解釈学、文学批評の立場からも大いに論ずるに値する症例である。

 私の論文「フロイトと狼男」は長さの関係で分割掲載とならざるをえないので、最初に全体の見通しを示しておこう。まず冒頭に年表を掲げて、パンケイエフの生涯と今後、考察する様々な出来事、用いる主要文献などの見取り図を描く。ついで第1章ではフロイトの論文に的を絞って、その基本構図を描き出し、第2章では狼の夢とそれをめぐる解釈について議論する(本稿ではここまで)。第3章では引き続きフロイト論文の提示する原光景とその説得力について、治療失敗の原因を探りながら批判的に論じる。第4章では立場によってはトンデモ本の極みとも見られかねないが、私は特筆すべき「狼男」論であるのみならず、人間と人間を支配している言語(ロゴス)についてのめざましい洞察に満ちた精神分析論の傑作と考えるアブラハムとトロークの共著『狼男の言語標本』について紹介し検討するとともに、最後の第5章でささやかながら私の解釈を付け加えて終わりたいと思う。

 

 というわけでまず年表であるが、年表は客観的事実と確認できる事柄、およびパンケイエフ自身が回想記やインタヴューで述べており、かつ嘘をつく必要がないと考えられる内容に限って編集し、必要に応じて私なりのコメントを加えた。その代わり、フロイトがあったと想定しているものの、事実の確認できない出来事はすべて年表には含めず、第1章以下に譲ることにした。