フロイ トは 「文明」 の始源をいかにとらえたか(2)

 

フロイ トは 「文明」 の始源をいかにとらえたか− 「文明」と「宗教」との交差のなかで−

 飯   岡   秀   夫

 高崎経済大学論集 第50巻 第3・4合併号 2008   1頁∼18頁

 http://www1.tcue.ac.jp/home1/k-gakkai/ronsyuu/ronsyuukeisai/50_3.4/iioka.pdf

 

 

■文明の形成の二つの道

第1章   「家族(文明)」の始源

 人類の 「直立歩行」。 それがフロイト 「文明論」 の原点である。

人類文明の 「そもそもの発端は、 人類の直立歩行という現象だったといえるであろう」 (参考文献〔Ⅴ〕、c、P460)。フロイトは人類が「直立歩行」を始めたことに「家族」=「文明」の始源をみていたのだ。

そ のことは、一見、人類文明の起源に関する、「直立歩行」→「道具的生産」というマルクス的観点のフロイトによる継承を想起させる。たしかにフロイトは「ア ナンケ(自然の暴威)」にたちむかう労働→人間相互の共働→「家族(労働共同体)」=「文明」の形成という(11)、マルクス的観点を保持しつづけてはい る。

しかしフロイトには「直立歩行」→「家族(労働共同体)」=「文明」の形成ということに関しては別の観点が用意されている。 「愛」 にもとづく 「家族」 の形成という観点である。人類が「アナンケ」に対して「労働共同体(家族)」をもってたちむかう利益に気づく以前に、つまり、「利益」にもとづく「家族 (共同体=文明)」が形成される以前に、「愛」にもとづく「家族(共同体=文明)」が形成されていたのであるとフロイトはみているのである。

(11) 「われわれの先祖が、 この地上での自身の運命を労働によって改善できるかどうかは − それこそ文字どおり − 自分の手中にあることに気づいて以降、この原始人にとって、ある他人が自分と協力してくれるかそれとも敵に廻るかは、けっしてどうでもよいことではありえ なかった。その他人は彼にとって、いっしょに生活することがプラスになる、協力者としての価値を持つことになった。」(参考文献〔Ⅴ〕、c、P459)。

 

■家族の形成

そ れでは「直立歩行」と「愛」にもとづく 「家族」形成とはいかなる連関にあるのか。フロイトはそれについて次のように論じている。人類が「直立歩行」を始めた結果、嗅覚刺激の意味の低下と視覚刺 激の優位が出現した。その結果、人類に性的興奮が持続し、性欲が恒常化−   「客のようなもの」から 「継続的な間借人」のようなものに転化− することになり、人間の雄も雌も、 それぞれの愛の 要求に従って、 「家族」 を形成するに至り(12)、 それが文明の開幕につらなったのであると (13)。

以上からフロイトは次のように結論をくだす。人類の「共同生活(家族)」は外部ならの苦難−自然の暴威− によって生れた「労働への強制」と「愛の力」という二重の楔によって生れた。すなわち、「エロスとアナンケは人間文明の生みの親となったのだ」(参考文献 〔Ⅴ〕、c、P460)と。このテーゼはフロイトの「文明論」が「アナンケ」という 「外なる自然」と「エロス」という 「内なる自然」 の二つの力を起点として展開されていることを意味している。

フロイトは「アナンケ」と「エロス」から誕生した「原始家族」をダーウィンが仮 説した「原始群族」 に依拠して構想している。それがどのようなものであるかは第3章で論ずることにして、次に我々は、この「原始家族」の背景をなす、アニミズムの世界に足を ふみ入れるとしよう。

(12) 「このことによって人間の雄は、 雌ないしは性的対象一般を自分の手許にとどめておく必要を感じるようになったし、 幼

い子供たちを手離したくなかった雌はまた雌で、子供たちの利益のためにも、 自分より強い雄のもとに留まらざるをえなかったのだ。」(参考文献〔Ⅴ〕、c、P459)。

(13) 「こうしてみると、 人類の呪いとなった文化というもののそもそもの発端は、 人類の直立歩行という現象だったといえるだろう。その後事態は、嗅覚刺激がもつ意味の低下および月経現象の無視、視覚刺激の優位、性器の露出、性的興奮の 持続、 家族の成立から人類文化の開幕というふうにつぎつぎと進んでいったのだ。」 (参考文献 〔Ⅴ〕、 c、 P460)。

 

 ■アニミズムの時代

第2章   「文明」 前史としての 「アニミズム」 の時代

フ ロイ トの 「文明論」 にあっては、 「宗教的世界観」 成立以前のアニミズムの時代は 「文明」 前史として位置づけることが可能であろう。何故かといえば、この時代に、「(真の意味の)文明」の到来を準備した、文明的諸要素− 1. タブーによる「欲動の断念」、 2.「良心(罪意識)」や3.「社会的欲動」の萌芽、 4. 自然支配の最初の技術である「呪術」、 5.「肉体」と「霊魂」という二元論の原初をつげる「霊化」(人類の根源的「断念」を意味するもの)、 6. 「デーモン」を鎮める「儀式」等− が形成されたからである。フロイトは「文明」と「宗教」との萌芽的な交差状態にある、これら「(真の意味の)文明」を準備した「文明」的諸要素を「精神分 析学的思考(14)」によって考察し、 論理仮説としてその意味内容を解明している。

以下、1.∼6.のそのそれぞれについてフロイトがいかに解明しているかをみていくことにしよう。

ア ニミズムの時代に生きる「原始・未開人」の心理的特徴は、フロイトに従えば、彼らが未だ幼児的心理の段階にあったということ、特に、彼らの心が「本源的ナ ルシシズム」に満たされ、かつ、生・死の本能とそれに発する 「愛」 と 「憎しみ」 のアンビヴァレンツが奔放に作用していたという点にある。この奔放な「アンビヴァレンツ」と「本源的ナルシシズム」という 「原始・未開人」の二つの心理的特徴から、 フロイトアニミズムの時代の文明的萌芽のそれぞれをときあかしている。

まず、アンビヴァレンツな心理に呼応して出現した、 1.「タブー」からみていくことにしよう(15)。

(14)フロイトの「精神分析学的思考」というものがどういうものであるかについては、拙著「フロイトの『本能論』」(『高崎経済大学論集』第48巻3号)の序の個所を参照のこと。

(15) 「タブー」 は、 たとえば「死者のタブー」 のように、 アニミズムの時代のごく初期の段階から存在したと考えられる。 しかしそれが「文明」 へと方向づける強制力を発揮するのは、 「トーテム制度」 の成立と共にである。 フロイトの 「タブー」の議論は、主として、「トーテム制度」 と関連づけてなされているから、本稿では、「トーテム制度」の時代も、「宗教的世界観」成立以前の、アニミズムの時代に属するものとして論じておくことに する。「トーテム制度」の時代は、第3章で詳論するように、実は、「アニミズム的世界観」の「宗教的世界観」への転換期なのだが。

 ■タブー

タ ブーとは外部からおしつけられた、 人間の最も強い欲望に向けられた 「禁止 (Hemmung)」であり、あるいはまた、「禁止する力をもつものそのもの」である。それは「原始・未開人」のアンビヴァレンツな心理の反映として、 アンビヴァレンツな二つの魔力をもつものとして出現する。そのひとつは、 禁止されている強烈な欲望を思い出させ、 禁止を犯してまでもこの欲望を果すよう誘惑するような魔力であり、 もうひとつは、それだからこそそれは危険なものであり、決して近づいてはならないもの、 もし近づいてそれに触れでもしたならば自動的に復讐される − 必ず罰をうけることになる − ような魔力である。「原始・未開人」たちは無意識のうちで禁止を犯すことを何よりも願望しながら、同時に、そうすることを無条件に恐れており、結局は恐れ の方が欲望に打ち克つて、タブーの「禁止」に従い、タブー遵守のなかでかの「欲動の断念」がおこなわれる。それと同時に人類は、 「文明」化への第一歩をふみ出すことになるのである。

このタブーの力がもつ「禁止」の作用から、 2.「良心(罪意識)」の核が形成される。タブーを犯せば自動的に復習される、 特にたえがたい災難 (たとえば死など) を招くことになる。 「良心」とはそのことを確信しているということ、つまり、 そのことを自明なものとして最も確実に知っているということである(16)。それ故、タブーは良心の命令であって、 自動的に復習されるということを確信しているからこそ、 タブーを犯せば「罪責感」 に襲われるのである(17)。

以上のごとき宗教的要素 と交差して、 アニミズムの時代に、 「共同体」の維持・存続に不可欠な、3.「社会的欲動(友愛的な社会的感情)」が芽生える。その一方の源泉は「利己的な要素」であり、他方の源泉は「性愛 的な要素」、さらに詳しくいえば、「欲動の断念」に出立する、「友愛的・社会的要素」の出現である(18)。しかしその詳論は第3章と第4章にゆずること にしよう。

(16) 「良心とは、 われわれのう ちにある一定の願望欲動の拒否を内面的に知覚することである。 しかし重点がおかれているのは、 この拒否は他の何ものをも引合いに出す必要はない、 つまり自分自身を確信している、 ということである。 これは罪意識の場合に、 すなわち、 ある行為によって一定の願望欲動を果たしたことを、 内心において罪有りとする知覚の場合にさらに明白となる。」(参考文献〔Ⅰ〕、c、P205)。

(17)「つまり、タブーは良心の命令であって、これを犯すと恐ろしい罪過感情がおきるのだ。」(参考文献〔Ⅰ〕、c、P205)。

(18) 「文化所産の基礎になっているのは、 利己的要素と性愛的要素との結合から生じた社会的欲動なのである。」 (参考文献〔Ⅰ〕、c、P209)

 

■呪術と霊化

「本 源的ナルシシズム」に満ちあふれる「原始・未開人」の心理をベースとして、さらにフロイトは、 4.外界の諸力に立ちむかう人類最初の技術である「呪術」と、 5.「アニミズム的世界観」の土台をなす「霊化」、つまり、 「霊魂観念」の生成から、万物に霊魂が宿るという世界観の成立を解明している。次にその二つについてみていくことにしよう。

「原始・未開 人」 たちは彼らに満ちあふれる 「本源的ナルシシズム」 から、 自己の願望→思考の力に多大な信頼を置き、 自分が願い考えたとおりに外界が動くものとかたく信じて疑わなかった。ここからアニミズムの時代を支配した 「観念の全能」 という思考方法の原理が帰結する。彼らは、いわば、「観念的連関を現実的関連ととりちがえていた」のである。しかし、当然のことながら、彼らも「観念の全 能」が貫徹できない外界の暴威− たとえば「雨よ降れ」と願い考えても日照りがつづくという事態− に直面して「ナルシシズム」を傷つけられることがあった。その時、彼らは 「呪術」 にたよるのである。 たとえば降雨をマネして、 自分で水を撒き散らすという 「呪術」(模倣呪術)に。そうすれば必ず雨が降るという 「観念の全能」に支えられて。

次に6.「霊化」についてみておこう。

「原 始・未開人」たちが「観念の全能」を拒否されて、決定的に「本源的ナルシシズム」を傷つけられるのは「死」という事態に直面した時である。「原始・未開 人」たちは、本来、「本源的ナルシシズム」 に満ちあふれているから、 自分に死が訪れることがあるなどとはゆめ思ってもいない。「死」 は他人ごと、 敵の屍には勝利の雄叫びをあげさえしていたのだ。 しかしごく親しい愛する人の「死」を前にしてはそうはいかなかった。その時彼らは自明であるはずの「生命の永続」 − つまり 「不死」 − が拒否されている現実に直面したのである。彼らは「死者」を悼むことによって「死」というものの味わいを知り、その結果、 もはや「死」を自分から遠ざけるわけにはいかなくなった。彼らは「観念の全能」をうちくだかれ、「本源的ナルシシズム」を決定的に傷つけられるなかで、は じめて、 自分の力ではいかんともしがたい「アナンケ(宿命)」の力を感知したのだ。

そこで彼らはどうしたか。 「死」 ということは認めはしたが、 彼らを支える 「本源的ナルシシズム」から、その「死」に「生の否定という意味」を認めはしなかったのだ。そこで「死」のもたらす肉体的分解過程で、なお「生きつづける もの」、つまり、「霊魂」なるものを考えついたのである(19)。

そうすることによって 「原始・未開人」 たちは 「本源的ナルシシズム」 に発する 「全能性」 の一部分を「霊魂」に譲渡し、自己の行為の自由の一部分を犠牲にしたのだ。このことを「霊化」という。この 「霊化」 という 「根源的断念」 によって人類は文明創造に立ちむかったのである(20)。文明と宗教との根源的交差のなかで。「家族の形成」が「外なる自然」の支配・克服の始源であるの に対し「霊化」は「内なる自然」の支配・克服の始源であるのだ。

「霊化」はこうしておこなわれた。そして彼らは人間に宿る 「霊魂」から類推して、人間以外の動物、植物、事物にも、つまり、森羅万象のあらゆる存在にも霊魂が宿るという 「アニミズム的世界観」をつくりあげていったのである。

(19) 「人間は、 死者を悼むことによって死の味わいを知ったからには、 もはや死を自分から遠ざけるわけにはいかず、 そうかといってまた、自分の死を思い描きえないからには、死を認めることをも欲しなかったのである。そこで人間は、妥協を試み、自分自身の死を認めはした が、 それに生の否定という意味は認めなかった。 これを認めるためには、 敵の死では十分な動機にならなかったのである。いとしい人物の屍を前にしては、人間は霊魂を考えついた。」(参考文献〔Ⅱ〕、b、P414)。

(20) 「原始人をまず反省的にして、 彼の有する万能性の一部を霊に譲渡させ、 自己の行為の自由の一部分を犠牲にさせたのが、実際に、死者にたいする生存者の立場であったとするならば、こうした文化的創造は、人間の自己愛に逆らうア ナンケAναγκη (必然、運命) をまず認めたということであろう。原始人は、死を否定するかに見える態度によって、死の巨大な力に屈するのであろう。」(参考文献〔Ⅰ〕、c、 P225)。

 

■デーモン

ここでひとつの疑問が生ずる。 それは、 ごく親しい人の 「死」 の観察から 「霊化」がおこなわれたのにもかかわらず、何故、 アニミズムの霊的存在は人に 「敵意」 をいだき悪を働く 「デーモン」として登場するのか、 という疑問である。その疑問は6. 「デーモン」 を鎮める儀式の生成の問題につらなる。 フロイトはそれに対して 「デーモン」 とは生者が死者に対して抱く 「敵対感情」 の投射であるとして、次のように説明している。

ごく親 しい愛する人の 「死」 を目前にしている生者の心には、 「死んでいく者」 に対する哀悼の情と同時に無意識のう ちにその人の死を願う 「敵対感情」 が必ず − 親しければ親しいほど − 存在する。 このアンビヴァレンツの帰結として、 愛する人の死後、 生者の心には、 「自責の念」 があらわれる。 無意識のうちの敵対感情からその人の死を願望したことの反動形成としてである。 そこで生者はどうするか。 防衛機制を働かすのである。

生 者は無意識の願望からひきおこされた、 自己の内なる「強迫自責」からまぬがれるために、自己の内なる無意識の「敵意」をその「敵意」の対象たる「死者」の側に移し入れる。つまり 「投射」するのである。その結果、「死者」が「敵意」の主体となって「生者」にむかって立ちあらわれ、「死者(対象)」に宿る霊魂は「生者」に対して悪を 働く 「敵意」に満ちた「デーモン」として立ちあらわれる、 というのである。

このようにして「原始・未開人」の「死者」に対する無意識の 「敵意」は投射という防衛機制によって抑圧され、彼らは「強迫自責」という内的圧迫からまぬがれることに成功する。しかし、それとひきかえに、 今度は、 「死者」 や 「デーモン」 という外部的存在に外部から責めたてられることになる。そこに「儀式」が成立する。「儀式」とは「死者」や「デーモン」による懲罰に対する恐怖のあらわれ であり、 そこからの回避の試みなのだ(21)。

「原始・未開人」の心理に支えられた以上1.∼6.でみてきたようなアニミズムの時代の 「文明」は、 しかしながら、「(真の意味の)文明」とは呼べない。フロイトは「(真の意味の)文明」の開始− 「未開」から「文明」への転換− には革命が必要であったとみているのだ。「『原父』殺し」という革命が。以下、その内容をみていくことにしよう。

 (21) 「タブーの儀式」 については、 フロイ トは、 神経症の強迫行為に対応させて、 次のように解明している。 「タブー儀式は、抑圧された欲動とこれを抑制する・欲・動・と・が同時にいずれも満足させあう、あの神経・症・の・強迫行為にまさしく対応するもののよう に思われる。強迫行為は表面上は禁止された行為にたいする防御であるが、本来は禁止されたことの反復なのだと、われわれは言いたい。」(参考文献〔Ⅰ〕、 c、P.192)。