小 林 敏 明「 暴力と社会の起源を求めて」を読む(2)

 ■今村の暴力論と市民社会論

さらに重要なことは, すでに述べたように, この今村の暴力論が近代市民社会を最終ターゲットにしていたということである。 すなわち第三項排除の結果としてもたらされる 「同一」で「合理的」 なシステムとしての近代市民社会である。今村にとって近代市民社会とは, それ自体が暴力的存在であるような合理的同一性の世界であった。 だから今村がその後アドルノに代表されるような啓蒙的合理主義批判や同一性批判を特徴とするフランクフルト学派に接近していったのは, ことの必然でもあったし, なかでも暴力論をも射程に入れていたベンヤミンの歴史哲学への特別な想い入れも, そうしたコンテクストからみれば, きわめて当然のことだったのである (その意味で, 翻訳とはいえ, 三島憲一らとの大著 『パッサージュ論』の共訳作業は今村の全仕事のなかでも大きな位置を占めている)。

ところで, この今村の暴力論を含めて興味深いのは, 廣松, 柄谷, 今村に共通する発想として, いずれも第Ⅲないし第Ⅳ形態に中心的な意味を見出したことである。 最近の例でいくと, たとえばスピヴァクなどが, この価値形態論の四つの形態を具体的な発展過程ととらえ,その第Ⅱ形態に植民地経済の特徴を見いだそうとしたように(『ポストコロニアル理性批判』 p.155f.), これらの形態をそのまま具体的な歴史的発展段階と解釈する可能性がないわけではない。 これに対して, 廣松においては認識存在論的関係が, また柄谷においては共同体ないしシステム間の関係が一次的意味をもつため, 第ⅢないしⅣの形態が重要視され, ⅠとⅡはいずれもそうした原基的関係性の二次的産物または日常的な映現形態にすぎないと解釈されるわけだが, 似たことが今村の論理にも妥当する。 今村にあっては第Ⅲ形態こそがあらゆる共同体に内在する「構造的関係」を端的に表したものであり,第ⅠとⅡの形態は, あくまでその構造を前提にしてはじめて可能となる, やはり二次的な映現形態にすぎないからである。だから, その意味で彼らの論議が七〇年ごろから始まる構造主義ブームと連動しえたのは,ある意味で必然だったと言えるのである。

 

■今村『社会性の哲学』の位置

 

3. 暴力の存在論的起源

 さ て, 今まで見てきたように, 第三項排除を核とする今村の暴力論はきわめて構造的かつ図式的な姿をしている。 むろんそれには文字通り構造主義の影響が与かっている。 だが, 構造主義自体がやがて「差異」や「脱構築」を謳うポスト構造主義へと脱皮していったように,今村においても, その暴力論は第三項排除の図式を指摘するにと どまっていることはできなかった。今村にとって第三項排除の図式がゆるぎないものであったとしても, そもそも人間にとってどこからその 「排除」 が出てくるのかが, まだ解き明かされていないからである。この問いは, 場合によっては形而上学神秘主義にさえ接するような, すぐれて存在論的な問いである。 じじつ死を前にした今村はこの問題に集中的に取り組んでいた。 その渾身の成果が,早すぎた死のために自らはついに手にすることのできなかった,彼のライフ・ワークともいうべき 『社会性の哲学』 にほかならない。 この著作はフランス現代思想の権威たる今村の面目を躍如する力作でもあるが, ここではそれまでに渉猟された現代思想の数々が新たに今村社会哲学構想のなかに摂取消化され, もって一大思想体系を作り上げるにいたっており,おそらく今後この著作を抜きに今村理論を語ることはできないであろう。以下, この著作にしたがって, 今村暴力論の先鋭化のプロセスを跡付けながら, あわせて私自身の問題提起をも試みてみたい。

■自己破壊的暴力

も う一度繰り返しておけば, 第三項排除の具体的モデルは犠牲ないしスケープ・ゴートと呼ばれる現象であった。 だから, 第三項排除の必然性は人間存在にとっての犠牲現象の必然性に帰着することになる。 いったい今村はこの必然性をどこに見ていたのだろうか。 まず引用から始めよう。

人 間の原初的存在は無限内包摂であ り, 無限的能与作用による自己の所与存在を負い目として感じつつ存在することである。自己の現実存在を「与えられ」と感じることが,負い目を負うことであり, その負い目を解消させる行為が自己贈与であった。自己保存的な現実存在 (現世内存在) は自己破壊的傾向に不断に脅かされている。 その意味では生きることすなわち自己保存は自己破壊のたえざる抑圧であり, さらには限定否定によって破壊の方向を内から外へと転換することである。 根源分割から生まれた人間存在は無限に向かう傾向 (自己破壊的贈与) と有限な現世に向かう傾向 (自己保存) を本質的要素として内在させている。 (『社会性の哲学』 p111)

このあま りにも凝縮された表現は説明を必要としよう。 まず, この人間存在を自己破壊と自己保存のディコトミーからとらえる基本構造には, スピノザの自己保存論やフロイトのエロス・タナトスの二大欲動論の影が落ちているのだが, さしあたりの問題は暴力に直結する「破壊」のファクターである。周知のように, フロイトタナトスには「自らの死への志向」と 「他者に対する攻撃性」 の両義が含まれているのだが, 今村にあっては, 論理上まず 「自己破壊」 が原基的位置におかれる。 言い換えれば, 他者への暴力ではなくて, 自分自身に向けられた暴力が先行するのである。 しかも, それは 「自己贈与」 という規定を受けている。だから, まずこのことが明らかにされなければならない。

 今村によれば, 人間存在にとっての第一歩は, 現世に 「与えられてあること」 に始まるという。 これは自らの意志によって選び取られたものではない絶対の所与性ないし贈与性である。 とはいえ, 無神論者の今村にとって 「与える神」 は問題とならない。 それは「ただ与えられてある」 のだ。 別の言い方をすれば, 何であるかもわからないような 「何ものかが与えている」, そういう 「与えられ」 である。 だからこの 「与える働き」 は何か実体的なものではありえない。 それは言語にも表象一般にもかからない, いわば認識不可能なXである。逆にいえば, われわれの存在や認識はこの 「与えられ」 そのものから始まるということである。こうした考えは「es gibt」や「il y a」を問題にしたハイデガーレヴィナスの考えに接近している。また, これが絶対の贈与としてとらえられるところには,今村が高く評価していたバタイユの 「普遍経済学」 の影さえ認められないわけではない。 いずれにせよ, それはかろうじて対象化不可能な「存在感情」によって「感じられる」にすぎない。

 

感 受作用としての 「感じる」 は, この 〔与える〕 働きを対象化しないで 「把握する」存在感情は, 存在するものなしにはありえないが, 与える働きを存在するものを通して非対象化の仕方で受容する。 存在を感じることは, 存在を与える働きを感じるのである。(同書p9)

 

だ が, この対象化でき ない存在感情は同時に 「根源的分割」 の瞬間でもある, と今村は言う。 そしてその分割はやがて言語による差異化, 分節化を可能にし, ひいてはわれわれの対象化的認識を可能にする, その出発点でもある。 根源をもたない 「根源的分割」, それはデリダの「差延」やレヴィナスの「イポスターゼ」を連想させる。あるいは「無の自己限定」を言った西田をさえ想わせる。 今村の構想が形而上学神秘主義に接するといった所以である。じじつ今村自身「人間はおそらく神秘主義的要素を免れることはできない」 (p72) と告白している。

ところで, この人間存在の原基的あり方のどこに暴力への契機が見いだされるというのだろうか。それは始まりとしての「与えられてあること」 という絶対の所与性そのものにある,と今村は言う。 与えるものが何であれ, 与えられているという受動性の感情は, それ自体が「負い目」 の感情である。 負い目=罪Schuldとは, かつてニーチェがその語源に遡って明らかにしたように, 「借りSchulden」の意識にほかならない(『道徳の系譜』)。借りである以上は返さなければならない。つまり, 人間とは目に見えぬ根源ならぬ根源に向かって借りを返さなければならない存在なのである。 この返済が今村のいう 「自己贈与」であり, そしてその究極形態が「自己犠牲」としての「自己破壊」にほかならない。さきに今村の暴力論が他者に対する攻撃性ではなく, 自己に向かう暴力から始まると述べておいた所以である。

 

■自己破壊的な暴力の矛盾

だ が, ここにひとつの根本的矛盾が発生する。 絶対的所与性に対する返済として自己を破 壊してしまえば, 人間は生きていく ことができないという明白な矛盾である。 最初に述べたように,今村は自己破壊と自己保存のディコトミーを立てていた。つまり人間は自己保存欲動にしたがって生きつづけようと思えば, もう一方の自己破壊 (の欲動) と何らかの形で折り合いをつける必要が出てくるのである。 自分は生き延びながら, なおかつ返済を果たすという目的のために, どのような折り合いの形があるのか。 それは「破壊=犠牲」 を自己から他者にずらすことである。 心理・論理的にはこの他者は必ずしも他の人間である必要はない。折り合いさえつけば, それは物でも動物でもよいことになる。 それはフロイトが『トーテムとタブー』 でも明らかにしたとおりである。 だが, 人類の大半はこの代理犠牲を同じ人間のなかにも見いだしたのであった。今村にとって文字通りのスケープ・ゴート (身代りの山羊)からホロコーストまで, 子供のいじめから貨幣まで, それらはいずれも第三項排除としての「暴力」 の発現形態にほかならない。

 

こ う して社会のなかで, 個々人は自身で引き受ける自死欲望 (無意識的な欲望) を他人に移転することで満足し, 自死欲望の充足を「ふり」として実現するが,個人のそのような「観念論的」行動こそが「物質的な」社会構造を構築していく。この欲望はたとえば経済生活の なかでも働く。 掲示権力の形成では自死欲望は生きている他人の犠牲へと向かうが, 経済ではこの犠牲形成欲望は物体へと移転させられ, 貨幣形式を生み出す。(同書p113/4)

 

今村にとっては, だから 「経済戦争」 はたんなるメタファーではない。 それは文字通りの戦争と並ぶ, システム化された 「暴力」 の有力な一現象形態なのだ。 今村には, ではこうした「暴力」はどう克服されるべきなのか,そしてそれはもうひとつの柱たる「労働」論とどう関係するのか, というさらなる難題が課せられていたのだが, 病という別種の 「暴力」 はついに今村にそれを許さなかったのである。 もはや今村の立てた壮大な構想が明らかであろう。むろん, これは今村の「社会性の哲学」のすべてではない。しかし少なくとも彼の追求した暴力論がとてつもない拡がりと深さをもって構想されていたことがわかるであ ろう。 洋の東西を問わず, 私はこれ以上に暴力問題を突きつめた思想家を知らない。 そしてそれへの解答は次の世代に向けて開かれたままになっているのである。

 

タナトス

そ こで遺された者の一人として最後に問題提起をひとつ。 それは今村の暴力存在論の原基にもかかわる問題である。 すでに見てきたように, 今村は人間存在の絶対的所与性ないし贈与性から暴力の「起源」を説こうとした。つまり絶対的贈与に対する返済としての自己破壊が人間的暴力の起源だとされ た。 この論理の筋立てからいえば, 他者や外部に向かう攻撃としての暴力は, あくまでこの自己破壊の転移ないしずらしということになる。 そこから湧いてくる私の率直な疑念は,人間の暴力はそもそもの初めから「直接」他者に向くことはないのだろうか, ということにあるが, それよりもこの疑念に直接かかわる形で疑問を投げかけておきたいのは, こういう暴力起源論にかかわってよく引き合いに出されるフロイトタナトス概念に対してである。

さ きにも触れておいたように, フロイトはこの概念に「攻撃欲動」と無機状態に還る「死」の両義を込めたのだが, そもそもこの両ファクターの関係はどうなっているのか。今村の理論にからませて言えば, もし人間存在にとって絶対的贈与が問題になるのだとすれば, これに対する返済がなぜ自己 「破壊」 という一種の攻撃にあって, たんなる 「死」 であってはならないのか, という疑問となる。 たんなる無機状態への帰還としての死が問題であれば, 攻撃欲動を第三項に転化する必然性が消えてしまうからである。 それともタナトスは, そもそものあり方からして自・他や能動・受動の区別を無効にしてしまうような次元を開示しているのであろうか。またタナトスとエロスはたんなる相対立する 原理ではなく,バタイユが示してみせたように, むしろ不即不離の統一体をなしていないのだろうか等々, といった問題はいまだ充分に解き明かされていないように思える。 このように, 今村理論をより有効なものとして継承するためにも,私は「タナトス」概念や「死」「攻撃性」といった概念群の精緻化とその再検討が必要であるように考えて いる。 おそらくそれには現代生物学などとの本格的な理論的つきあわせなども必要となろうが, 残念ながらそうした心惹かれる仕事は現在の私自身の能力を超える。

 

 

■文献リスト

 

主要参考文献

今村仁司『暴力のオントロギー勁草書房 一九八二年

――『排除の構造』ちくま学芸文庫 一九九二年(初版青土社一九八九年)

――『社会性の哲学』岩波書店 二〇〇七年

宇野弘蔵資本論入門』講談社学術文庫 一九七七年

柄谷行人マルクスその可能性の中心』 講談社 一九七八年

廣松渉『物象化論の構図』岩波書店 一九八三年

フロイト・S「戦争はなぜ」『フロイト著作集』11 人文書院 一九八四年

レヴィ=ストロース・C『アスディワル武勲詩』(西沢・内堀訳)青土社 一九七四年スピヴァク・G.C『ポストコロニアル理性批判』(上村・本橋訳)月曜社 二〇〇三年