フロイ トは 「文明」 の始源をいかにとらえたか(1)

フロイ トは 「文明」 の始源をいかにとらえたか− 「文明」と「宗教」との交差のなかで−

 

飯   岡   秀   夫

 

高崎経済大学論集 第50巻 第3・4合併号 2008   1頁∼18頁

 http://www1.tcue.ac.jp/home1/k-gakkai/ronsyuu/ronsyuukeisai/50_3.4/iioka.pdf

 

目     次

 

序.テーマおよび構成

第1章   「家族(文明)」の始源

第2章   「文明」前史としての「アニミズム」の時代

第3章   「『原父』殺し」という革命 − 「未開」から「文明」へ−

1.「原始群族」の特徴

2.「原父」殺し

3.「罪意識」の生成とトーテム制度の確立

4. トーテム制度− そのタブー、その饗宴−

5.「宗教」、「社会組織」、「倫理・道徳」の端緒

イ.「宗教」の端緒

ロ.「社会組織(文明的集団)」の端緒

ハ.「倫理・道徳」の端緒

6.「文明」と「宗教」との交差

− 「倫理・道徳」をめぐる、「宗教」と「社会組織」との連関−

 

第4章   「未開」から「文明」への、愛の変容と集団の変容

− 「集団心理学」的観点からの「文明」の始源−

結び. まとめと展望

 

 

 ■文化と文明の「違い」

序.テーマおよび構成

いま 「文明」概念の核となるところのものを 「人間による 『外なる自然 (外界)』 と 『内なる自然(内界)』との支配・克服の営為」と捉えてみるならば、フロイトの「文化」概念はこの意味にお ける 「文明」 概念とぴったりと重なっている(1)。 また、 フロイトが人類の 「文化」 のなかには「人間生活」を「動物生活」から区別するすべてのものが含まれるという時、さらに、「文化」には「自然支配 (とそのための知識や能力)」 という側面と 「人間の相互関係 (なかんづく物質の分配を円滑にする社会制度)」という側面との2側面があるという時(2)、フロイトは「文化(Kultur)」と「文明 (Zivilisation)」との間に、さしたる区別を置いていない(3)。

「文明」の核を「人間による内・外の自然の支配・克服の営為」と捉える本稿が、以上の2点にかんがみ、フロイトの「文化(Kultur)」という用語を「文明(Zivilisation)」という用語に置きかえて以下論ずるとしても、 それは許されることであろう(4)。

フ ロイトは「文化」と「文明」にさしたる区別を置いていない、だから、本稿がフロイトの「文化」という用語を「文明」という用語に置きかえて論ずるとして も、それは許されるであろうということは、 「文化」の本質を規定するフロイトの次の定義をみればさらに明らかになるであろう(5)。

「す なわち 『文化』 とは、 われわれの生活と動物だったわれわれの先祖の生活と を隔てており、 かつ自然にたいして人間を守ることおよび人間相互のあいだの関係を規制することという二つの目的に奉仕している、 一切の文物ならびに制度の総量を意味する。」(参考文献〔Ⅱ〕c、P452)。

本稿ではこの定義によるフロイ トの 「文化=文明」 に関する議論をフロイ トの 「文明論」 と呼ぶことにする。

 (1) フロイトが「外」 と 「内」 の自然支配・克服のうちに 「文化=文明」 が成立するとみていたことは、 たとえば、 次の言葉にも、明白に表れている。「文化は労働と欲動放棄のうえに成立するものである」(参考文献〔Ⅳ〕、c、P364)。ここで「労働」とは「外」なる 自然の、「欲動放棄」とは「内」なる自然の、支配・克服の意であることはいうまでもない。

(2) 「文化とは、一面においては、人類が、自然のもろもろの力を支配し、自分の必要をみたすよう自然からさまざまの物資を奪いとるために獲得した知識と能力の 一切を包含するとともに、他面においては、人間相互の関係、その中でもとくに、入手可能な物質の分配を円滑にするための全社会制度を含んでいる。」 (参考文献 〔Ⅳ〕、 c、 P363)。

(3)事実、フロイト自身が次のようにいっているのだ。「しかも私は、文化と文明を区別する必要を認めない」(参考文献〔Ⅳ〕、c、P363) と。

(4) とはいえ、フロイトの「文化=文明」に関する議論は、「精神分析学的思考」を駆使しての、論理仮説として展開されているから、本論での展開が示すように、 「内なる自然」の支配・克服にかかわる「文化」的側面が濃厚にあらわれていることは事実である。 しかし、それと同時に、「労働」や「社会組織」をもって「外なる自然」の支配・克服をめざす「文明」的側面もまた、フロイトが重視していたということは、 本稿の以下の展開が示すとおりである。

(5)この定義からすれば、むしろ「文化」とは呼んではならず「文明」と呼ばねばならないと思えるくらいである。

 ■この論文のテーマ

さ て、フロイトの「文明論」にあって「文明」、つまり、「『自然にたいして人間を守ること』と『人間相互のあいだ の関係を規制すること』 という二つの目的に奉仕する 『一切の文物ならびに制度の総量』」 は、 そもそもの初めから、 「宗教」 との交差のなかにあるとされている。 というのは、フロイトに従えば、「文明」と「宗教」とは共に「アナンケ(自然の暴威)」に立ちむかう人類の営為にその始源をもつとされているからだ。 一方では 「労働共同体」 をもってそれに立ちむかう財(利益) と効用(快感)をめざす営為(文明)、他方では「神」と「宗教観念」を創造してそれに立ちむかう 「安心と慰め」をめざす営為(宗教)。

フ ロイトの「文明論」にあっては「文明」も「宗教」 も、 そもそもの、 その成立が「自然の暴威」 に立ちむかう人間的営為にあるという一点に於て同根なのだ。そもそもの同根から出立し、人類史上さまざまな変容をみせる「文明と宗教との交差」のなかで、 フロイトは「文明」の始源をいかにとらえたか。なかんづく、「未開」と「文明」の狭間で何がおこったととらえたか。 これをさぐることが本稿のテーマである。

 

■家族から共同体へ

本論で明らかになるように、フロイトの「文明論」にあっては、「文明」を構成する主要三要素は「共同体(社会組織・集団)」と「宗教」と「倫理・道徳」で ある。そのなかでもフロイトは特に「共同体」を重要視し、「文明」イコール「共同体」といい切るかのように「共同体」を「文明」の中心にすえている。その ことはたとえばフロイトが「文明」なるものを個から「家族」→「部族・民族・国家」を経て→「人類共同体」に至るプロセスである(6)とみていたことなど からもうかがい知ることができるであろう(7)が、なによりも、「家族」の始源イコール「文明」の始源ととらえていたことからも明らかであろう。

そ れでは「文明」の始源たる「家族」という 「共同体(文明)」はいかにして始まったのか。フロイトはそれに対して次のようにこたえている。人類の「共同生活(家族)」は「アナンケ(外的自然の暴 威)」が人間に課す「労働」→「共同生活」への強制と「愛の力」という二重の楔によって生れた、それ故、「アナンケ(自然の暴威)」と「エロス(愛の 力)」こそ「文明(家族)」の生みの親であると(8)。 人類文明の生みの親はエロスとアナンケであるという時、 それはいったい何を意味するか、また、「アナンケ」と「エロス」という二重の楔から、「家族(文明)」はいかにして誕生したというのか。 このことは第1章で論ぜられる。

この「文明(家族)」形成の議論ではっきり表にあらわれている側面は「アナンケ(自然の暴威)」に対して 「労働」と「愛」とをもって立ちむかい、「財(利益)」と「効用(快感)」を追求する人類の根本的欲動・動機の側面である(9)。しかし、この側面はフロ イト「文明論」の一側面にすぎない。フロイトの「文明論」にはこうした生存と快感を求めての「外的自然の支配・克服」という側面を背後におしやる、 別の相貌が根底にすえられている。 それは 「内なる自然の支配・克服」 という側面である。

フロイトは「文明」が成立する前提について、 人間の外的自然の支配・克服ということとは別に、また、次のようにいっているのだ。「文明」の相当部分は「欲 動断念」の上にうちたてられており、さまざまな強大な欲動を満足させてないこと (禁止→抑圧すること) がまさしく文明成立の前提になっていると(10)。「文明」は「欲動の断念=内なる自然の支配・克服」の上に成立するとフロイトはいっているのだ。

(6) 「文明は、 最初は個々の人間を、 のちには家族を、 さらには部族・民族・国家などを、 一つの大きな単位− すなわち人類− へ統合しようとするエロスのためのプロセスである。」(参考文献〔Ⅴ〕、c、P477)。

(7) フロイトが「社会関係」 の規制が「文明」 を生んだとみていたことは確実である。 たとえば次の言葉をみよ。 「文明的要素は、こうしたさまざまの社会関係を規制しようとする最初の試みが行なわれた時はじめて誕生した」 (参考文献〔Ⅴ〕、c、P456)。

(8) 「人類の共同生活は、 外部からの苦難によって生まれた労働への強制と、 愛の力 − 男性の側からいえば性欲の対象である女性を、そして、女性の側からいえば自分の分身である子供を、手許にとどめておこうとする愛の力− という二重の楔によって生まれたのだ。すなわち、エロス(愛) とアナンケ(宿命)は、人間文化の生みの親ともなったのだ。」(参考文献〔Ⅴ〕、c、P460)。

(9) 「人類のあらゆる活動の動機は利益と快感獲得という二つの主要目的を手に入れるための努力である」 (参考文献 〔Ⅴ〕、c、P456)。

(10) 「欲動の断念」 の上に 「文明」 はうちたてられていると、 フロイ トは次のようにいっている。 「文明の相当部分が欲動断念の上にうちたてられており、さまざまの強大な欲動を満足させないこと (抑圧、押しのけ、あるいはその他の何か?)がまさしく文明の前提になっていることは看過すべからざる事実である」(参考文献〔Ⅴ〕、c、P458) と。フロイトは人類が「殺人、食人、近親相姦」という、最古の、強大な根源的欲動を「断念」 した時、はじめて、「文明」が始まった、動物的原始状態から別れはじめた、 とさえいっているのだ。参考文献〔Ⅳ〕、c、P366∼7を参照のこと。

 

■欲動の断念の意味

「欲動の断念」という 「内なる自然の支配・克服」の開始と共に、人類文明のなかに「宗教」と「倫理・道徳」という新な「文明」領域が出現する。欲動を断念せしめるものが「宗教」であり、その結果出現するのが「倫理・道徳」である。

しかし人類の「欲動の断念」は神々 (宗教) が成立する以前の、 アニミズムの時代からすでに始まっている。 しかもその時代に人類文明の行方を決定づける、 「霊化」 という深刻な 「欲動の断念」が経験されているのだ。 アニミズムの時代は 「共同体」 の萌芽と 「宗教」 の萌芽とが交差する、「文明」の黎明期だ。フロイトは「アニミズム的世界観」が支配する時代の、人類の萌芽的な文明的営為をいかにとらえているか。 そのことについては第2章で論ぜられる。

フロイトの「文明論」にあってエポックを画するものは、「アニミズム的世界観」と「宗教的世界観」 との狭間でおこった、 「原父殺し」 →トーテム制度の確立という革命的な事件である。 精霊崇拝から宗教への移行を強行したこの革命は真に 「文明」 と呼ばれるものの端緒を形成した。 この革命によって、真の「文明」の成立を告げる、「共同体(文明的集団)」と「宗教」と「倫理・道徳」という文明の本質を構成する三要素の原初形態が出現 する。 この革命のなかで、 アニミズム時代の「文明」と「宗教」との萌芽的な交差は、 トーテム制度によって統合され、「文明」の基礎に「宗教」がおかれるという形で、はっきりとその姿をあらわすことになる。

「原父殺し」 という革命的事件とはどのようなものであり、 それがトーテム制度の確立をつうじて、 いかなる心理と論理の連関で、真に「文明」 と呼べるものを出現せしめるに至ったか。 このことについては第3章と第4章で詳論される。

さ て、先に、「欲動の断念」→「倫理・道徳」の発生ということは「宗教」との連関でなされる、とのべた。しかしフロイトは「欲動の断念」→「倫理・道徳」の 発生ということを「宗教」にのみ結びつけて考察しているわけではない。というよりはむしろ「欲動の断念」→「倫理・道徳」の発生ということでフロイトが焦 点をあてているのは「共同体(社会組織・集団)」の維持・存在という側面である。つまりフロイトは「共同体(文明)」の維持・存在に必要不可欠な「欲動の 断念」とそれにもとづく 「倫理・道徳」は、「宗教」に基礎を置くものであってはならず、「共同体(社会組織・集団)」の必然に基礎を置くものでなければならないとみているのだ。 「宗教」 に基礎を置く「倫理・道徳」と「共同体」の必然に基礎を置く 「倫理・道徳」との、「文明」と「宗教」との交差のなかでの連関については、 3章の結び. で論ぜられる。

 

 

 

■文明の始原

「共 同体 (社会組織・集団)」 の必然に基礎を置く 「欲動の断念」 → 「倫理・道徳」 の発生の問題は、実は、一直線に「集団心理学」の議論につらなるものである。何故なら、そこには、「共同体(社会組織・集団)」を構成する、メンバーと指 導者との間の、また、メンバー相互間の愛(リビドー的結合) の質とその変容の問題が正面に出てくることになるからだ。

未開から文明への 「共同体(社会組織・集団)」の変容のなかで、フロイトは「文明」の始源を「集団心理学」的にいかにとらえたか− 「原始群族」という 「原始的集団」を支える愛(リビドー的結合)は「原父殺し」という革命をはさんでいかに変容したか、その結果、「原始的集団」はいかに変容して「文明的集 団」に至ったか− 。さらに「文明的集団」を特徴づける二つの文明的要素とは何であり、 それはいかにして形成されたか。 第4章ではそのことが論ぜられる。

結び. では本稿で論じておいたことの荒筋がまとめられる。 その上で、次に本稿が進むべき展望が示される。